
三代目大谷鬼次の江戸兵衛 出典:アダチ版画
浮世絵は江戸時代の娯楽の一部。
メディアのひとつであり、大好きな役者のプロマイドの役割も担っていました。
人気の役者の浮世絵は爆発的に売れたと言います。
今でいうとタレントグッズの一つですね。
その裏にはさまざまな絵師の思い入れや描かれた背景などがあります。
見方が変わればもっと面白いくなる役者絵のお話です。
浮世絵の役者絵とは
浮世絵とはそもそも庶民の生活をモチーフにしたもので、「憂き世」を描いたことから洒落で「浮世絵」と呼ばれるようになりました。
そんな浮世絵は今でいう広告媒体であり、雑誌であり、江戸っ子の娯楽の一部でした。
一気に大衆に浮世絵が広まったきっかけは「錦絵」と言われるオールカラーになったこと。
その人気は江戸にとどまらず、上方(京都や大坂)でも作られるほどでした。
江戸では同じく人気の芝居(歌舞伎)の役者絵が大ブーム。
そのきっかけが東洲斎写楽の登場です。
江戸では最初は歌川豊春らにより芝居小屋全体を描かれ、鳥居清長により舞台そのものが描かれるようになっていました。
そんな中、役者の特徴をとらえた迫力満点の役者絵は人々の心をわしづかみにしました。
ドイツの心理学者ユリウス・クルトはレンブラント、ルーベンスと並ぶ三大肖像画家の一人と称し、それにより海外で高い評価を受けるようになりました。
謎の絵師東洲斎写楽の登場
それまで役者絵というと、歌舞伎の一場面を切り取ったものや、バストアップの構図のものが主流でした。
そこへセンセーショナルな役者絵が登場します。
東洲斎写楽による「大首絵」です。
大首絵はそれまでも他の絵師により描かれていました。
ただ、写楽の大首絵は江戸っ子が度肝を抜かすほどインパクトのあるものでした。
画角の大半を役者の顔で埋め、顔に対し小さい首や手。
一見、デフォルメしすぎと思われるかもしれませんが、写楽の描く役者絵は当人とよく似ていたと言われています。
それまでの役者絵はなるべく男前、女形なら美しく描かれるのが当たり前。
しかし写楽は役者の顔のしわなども忠実に描いたため、良く似ていたそうです。
ですが、当然、美を売りにしている女形の役者からは嫌われていました。
東洲斎写楽とは
1794年5月、写楽の浮世絵が当時の名椀プロデューサー蔦屋重三郎(浮世絵の版元)から一気に28図出されました。
それまでにない役者の顔のアップ。
顔の特徴を良くとらえ、役者に良く似た役者絵はそれまでの美化した役者絵と大きく異なりました。
評判はあまり良くなかったものの、ある意味注目は浴びました。
それでも贔屓役者に良く似た浮世絵を求める客は少なくなく、写楽の役者絵はそれなりに売れたようです。
登場の年月が詳細に分かっていながら、写楽とはどのような人物なのかは今だ解明されていません。
この写楽、たった10ヶ月でぱたりと浮世絵界から姿を消してしまうのです。
その10ヶ月で出した浮世絵は145点余。
他の絵師では考えられないスピードです。
そのため、写楽とは実は数人の絵師で結成されている団体名ではないかという説まで浮上されたほどです。
さまざまな説があり、実は葛飾北斎説、喜多川歌麿説、十返舎一九説など。
それぞれの説にしかるべき理由が確かにあるのですが、これといった決め手に欠けていました。
10ヵ月の間に画風がかなり変わっていることや、たった10ヵ月で最後衰退が激しいことから何人かの絵師による合作説はしばらく続いたようです。
ところが近年、「浮世絵類考」という書物に「写楽とは八丁堀に住む阿波藩のお抱えの能役者で本名を斎藤十郎兵衛という」といった記述が見つかりました。
その後、ある寺の過去帳から八丁堀に住む斎藤十郎兵衛の名が見つかり、亡くなった年数などからみてこの斎藤十郎兵衛が写楽本人であるということが定説となりました。
ただ、なぜ蔦屋重三郎が無名の絵師を排出し、短期間で忽然と消えることになったのかは今も謎のままとなっています。
写楽の役者絵の見どころ
当時はいろんな意味で話題となった写楽の役者絵。
浮世絵に詳しくない方も一度は目にしたことがあるのではないでしょうか。
その写楽の浮世絵の見どころをチェック!
三代目大谷鬼次の江戸兵衛

出典:ウィキペディア
「恋女房染分手綱」より。
写楽で一番有名な一枚かもしれません。
テレビCMなどにも使われたことがあります。
観賞ポイントは二つ。
・アンバランスな身体の描き方
・背景の黒雲母
それまでの役者絵は喜多川歌麿などによって役者は美しく、自然な形のバストアップの構図がほとんどでした。
しかし写楽が出した役者絵は画面いっぱいの顔にアンバランスな小さな体や手。
しかもにらみをきかす、役の内面までも表現したインパクトのあるものでした。
この手は芝居の一幕、この江戸兵衛が狙っていた人物の行く手を遮るシーンを描いたと言われています。
また、黒い背景色は「黒雲母」。
「雲母摺」(きらずり)という技法の一種で、見る角度を変えるときらきらとします。
これは絵具に細かく砕いた貝や雲母をまぜたもの。
歌麿が好んで使っていましたが、それを効果的に使ったのが写楽と言われています。
この江戸兵衛の一枚はこの黒雲母の背景が効果的とされています。
市川鰕蔵の竹村定之進
「恋女房染分手綱(こいにょうぼうそめわけたづな)」の中で市川鰕蔵が演じた「竹村定之進」を描いたもの。
引き上げた眉に対し、結んだ口もとには舌がのぞく。
写楽特有の大きな顔に小さな手。その手の表情がこの芝居の一場面をよくあらわしていると言われています。
この背景も黒雲母。
鮮やかな着物の色を際立たせています。
一見シンプルに見える写楽の役者絵もこうして見て行くと意外な見どころがあることがわかりますよね。
海外では世界三大肖像画家とまで評された東洲斎写楽。
その謎はまだまだ解明されていないことが多いですが、実際残した浮世絵の数々は確かなもの。
浮世絵を見る機会があったら、ぜひ写楽ならではのこだわりを見つけてみてください。
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