「葛飾北斎」という名前を知らない日本人はいないでしょうが、実は海外でもその名は知られています。
アメリカで発行された「LIFE」という雑誌の特集「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」で日本人で唯一選出されたほど。
国内外で人気の北斎の作品。
なんとなくは知っているけど、一つ見方を変えると「なるほど~」と思える作品も。
描けないものはないと言われた北斎の魅力についてのお話です。
葛飾北斎とは
葛飾北斎というと、生涯で90回以上引っ越ししたとか、弟子に「北斎」の名を名乗らせたなどちょっと奇人的なエピソードばかりが有名ですが、いったいどんな人物だったのでしょうか。
浮世絵で知られる北斎ですが、「浮世絵師」という肩書はありません。
浮世絵は「絵師」「彫り師」「擦り師」をそれぞれの専門の職人がいて完全分業制となっているからです。
(現在はすべて同じ職人が担っています)
北斎は「絵師」。
浮世絵だけでなく数多くの肉筆画なども残っています。
幼少のときから絵を描くことが大好きで、世に出た絵だけも3万点を超えると言われています。
1760年生まれとされていて、東京葛飾区の生まれ。
江戸時代では平均寿命50歳くらいだったところ、90歳まで生きたという超人です。
しかも晩年まで絵を描き続けていたそうです。
絵師デビューは役者絵
19歳で役者絵師、勝川春章(かつかわしゅんしょう)に弟子入り、勝川春朗(しゅんろう)という画号を受け役者絵デビュー。
しかし画風は師匠の春章に寄せなくてはならないため、もっと画風の幅を広げたいと思っていた北斎(当時春朗)は春章に隠れて洋画など様々な分野の絵を学びます。
それが春章に知れることとなり、破門されます。
36歳から39歳は琳派?
春章から離れたあとは宗理の画号で活動。
どこか琳派の影響と受けていたといわれていますが、独自の画風を確立させます。
あくまで独自の表現方法を探求していたようです。
狂歌絵本の挿絵などが主流。
北斎誕生
この画号を使っていたのは実は39歳~56歳くらいまでと言われています。
現在なぜ「北斎」が定着したのかというと、一番この画号が長いから。
それだけコロコロと画号を変えていたということです。
生涯で使用した画号は30個とも言われています。
本人としては一番愛着のあった名のようですが、後にこの画号を売ってしまいました。
そう、お金に困窮すると画号を売ってしのいでたそうです。
人気の絵師でしたが生涯裕福ではなかったそうで、絵には定評があったため画号はお金になったんですね。
北斎を名乗っていたころは長編小説の挿絵ほか、肉筆画なども多く描かれています。
浮世絵の表現も多彩となり、奇才と称賛されました。
北斎漫画誕生
戴斗(たいと)の画号時代。56歳~60歳くらい。
この時期、「北斎漫画」を発表。
これは「絵手本」といって、版画を本にしたもの。
弟子をはじめ多くの絵師の手本となる本となり、これをきっかけに後15編にもわたり発行されました。
代表作「富嶽三十六景」発表
為一(いいつ)と名乗っていた70歳を超えてから富嶽三十六景は発表されました。
繰り返しになりますが、50歳が平均寿命だった時代です。
狂人的な体力で各所を周り。富士をあらゆる角度で切り取りました。
このほか大判錦絵など、次々と大作を世に出していきます。
代表作「富嶽三十六景」発表
これについては後ほどもう少し詳しく書きますね。
北斎を知らずともこの中の一枚は知っているはず。
世界でも屈指の有名な画です。
これを描きだしたとき、北斎はすでに70歳を超えていました。
卍(まんじ)時期
諸説ありますが、「卍」が北斎最後の画号となったようです。
74歳くらいから名乗っていました。
このころになると肉筆画中心となってきます。
体力の低下や視力の衰えなどが当然あったためと考えられます。
ですが、90近くになってもなお筆をとっていたという北斎。
何万という作品を発表していましが、なお創作意欲は絶えることはありませんでした。
名を変える度に心機一転し、新たな取り組みをしてきた北斎。
片づけられない性分から93回の引っ越しをし、30回ほど画号を変え、2度の結婚をし、70年の画歴で3万点を超える作品を残したその生涯は、あっぱれとしかいいようがありませんね。
最後「天が私の命をあと5年延ばしてくれたら、私は真の絵描きになれただろう」という言葉を残してこの世を去ったと伝わります。
葛飾北斎の代表の作品「富嶽三十六景」
北斎の代表作。
1830年頃から1835年頃にかけて作られ、北斎は70歳を迎えていました。
当時の平均寿命20年を過ぎたころです。
今でいえば90歳くらいでしょうか。
もちろん、写真などない時代。
実際各地を回って描きました。
三十六景と表題がついていますが、全46図の大判錦絵。
中でもThe Great Waveと称される「神奈川沖波裏」は世界でモナリザに次ぐ著名な作品とも言われるほど。
世界でも北斎の人気は絶大です。
見方が変われば見え方も変わる?
北斎の絵の魅力はその描写力だけでなく、大胆な構図にもあります。
構図とは画角に対し、どのように絵を切り取るかというものです。
富嶽三十六景は単に富士山を入れた絵でなく、その構図の面白さと大胆さが見る人を魅了しました。
「神奈川沖浪裏」
全46図中の1図。世界で最も有名な浮世絵(日本画)とも言えるかもしれません。
現在の横浜市神奈川区周辺からの風景。
もちろん、当時のここの海の波がこんなに激しかったわけではありません。
静と動、自然と人間、遠と近などの対称が大胆に描かれています。
船に必死につかまっているようにみえる人の表情は、どこか自然の流れにのっている、のどかさも感じられます。
自然と人間の二面性をも表現しているようにも見えます。
「凱風快晴」
「がいふうかいせい」と呼びます。
通称「赤富士」。神奈川沖浪裏に並んで有名な絵です。
朝焼けで赤く染まった富士を描いています。
北斎の絵を元に木版画で発行された当初はこれほど赤くなかったといいます。
凱風は南風の意味。
本物を見る機会があったら赤の濃さや木目を活かした表現にも注目してみてください。
同じ大胆な富士の姿を描いた「山下白雨(さんかはくう)」もあります。
海外の作家への影響
浮世絵が海を渡り、ゴッホやゴーギャンといった画家に多大なる影響を与えたということは有名な話。
実際模写なども多く残っています。
日本から届いた磁器の緩衝材に浮世絵が使われていたこと(実はそれは北斎漫画だったそうですが)、これをパリに住む銅版画家ブラックモンが友人宅で見つけ、それが口火となりました。
1867年のパリ万国博覧会を機に「ジャポニスム」と称され、一気に浮世絵人気に火がつきました。
写実でもない表現や鮮やかな色彩、これが筆でなく木版ということが驚きだったようです。
ゴッホやゴーギャンは浮世絵の模写をしましたが、睡蓮で有名なクロード・モネは浮世絵のコレクターでした。
その数300点近くといいます。
北斎の作品はここで見れる
北斎展や浮世絵の展示会はひとたび開催されれば、いつも長蛇の列ができるほど人気ですがいつでも見られる処はあります。
すみだ北斎美術館
北斎ならやはりすみだ北斎美術館。
展示されている浮世絵はレプリカではありますが、北斎の生涯にそった画風の変化などが分ります。
住所:東京都墨田区亀沢2-7-2
電話:03-6658-8936
営業:9:30~17:30(月曜休)
アクセス:
都営地下鉄大江戸線「両国駅」A3出口より徒歩5分
JR総武線「両国駅」東口より徒歩9分
都営バス「都営両国駅前」より徒歩5分
墨田区内循環バス「すみだ北斎美術館前(津軽家上屋敷跡)停留所」からすぐ
太田美術館
原宿表参道にある、浮世絵専門美術館。
常に展示内容を変えているものの、通年浮世絵を楽しめる場所です。
住所:東京都渋谷区神宮前1-10-10
電話:03-3403-0880
営業:10:00~16:30(月曜休)
アクセス:
JR山手線:原宿駅表参道口より徒歩5分
東京メトロ千代田線/副都心線:明治神宮前駅5番出口より徒歩3分
北斎の絵はどこまでも忠実ながら繊細。
でもそこかコミカルで現在のグラフィックデザイン的な要素もあります。
その構図や色彩、圧倒的な描写力が世界の人々を魅了しているのだと思います。
2021年北斎の生涯を描いた映画も公開します。
この機会にぜひ一度北斎について見直してみませんか。
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